大河ドラマ「八重の桜」が早くも最初のヤマ場に!
会津藩が京都守護職として京都に駐屯した文久二年(1862年)からの歴史は、
ジェットコースターのように展開が早い!
文久三年(1863年(の八月十八日の政変(クーデター)により京都を追放された長州は、
翌年(元治元年:1864年)に会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵して
京都に攻め入り、激しい市街戦を繰り広げた。 これが蛤御門の戦い(禁門の変)
小生の最も好きな時代であるだけに、”八重の桜”でこれだけリアルに再現されると興奮する。
6年ぐらい前に実際の現場を見に行ったことがある。(参謀旅行演習的な・・・)
戦場となった蛤御門、中立売門、堺町御門のエリアは非常に狭く、
回りは公家屋敷が立ち並び、御所(禁裏)に非常に近い。
例えて言うなら皇居前広場、丸の内界隈で市街戦、それも新式銃、新式大砲を使った
白兵戦が戦われたことに驚く。
本格的な戦(いくさ)は、島原の乱(1638年)以来、約230年振り。
その中で武士たちはよく戦った! 決して平和ボケしていなかった。
この戦いで解せないのは、長州兵がいとも簡単に御所に攻め入れたこと。
長州から京都までの道中に広島藩・岡山藩・姫路藩などの大藩、および大阪に駐留している
諸藩・代官・大坂城代が、この行軍を全く阻止するどころか事実上スルー状態で防衛機能を果たしていない。
そして上記の布陣図を見て分かるように、京都の内外では在京諸侯の藩兵が要所を守備しているが、
激しく戦ったのは長州、会津、桑名(京都所司代)、薩摩、大垣のみであった。
あとの藩は・・・・・ 出兵はするが日和見的な態度が根底にあったのだろう。
この戦いで発生した大火が京都の街を襲った「どんどん焼け」だ
約2万7000世帯を焼失。焼失町数811町(全町数1459)、焼失戸数49,414軒(全戸数27,517軒)
人的被害は負傷者744名、死者340名。
京都ではこの前の戦争というと「禁門の変」「どんどん焼け」のことを指すという。
・・・という噂がある。