新入生に対する式辞が名スピーチだとネット上で話題となっている。
1999年に映画「M/OTHER」でカンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞した映画監督。
映画製作を志し大学に入学した諏訪青年は高揚し、希望に溢れていた。
しかし大学生活が始まってすぐに、学び舎の外のインディペンデントな映画製作に魅かれ、飛びついた。
こうなると大学内での映画製作は、厳しい現実社会の批評に曝されることもない、何か生温い遊戯のように思え、
大学を休学する。
ふとした機会に大学に戻り自分の映画を作った。同級生達に比べ、多くの経験と言う自身があった。
経験に基づいて作った映画は、惨憺たる評価だった。
一方で、同級生達の作品は、経験も,技術もなく、破れ目のたくさんある映画だったが、
現場という現実の社会の常識にとらわれることのない、自由な発想に溢れていた。
諏訪さんは自分の体験を踏まえ、新入生たちにこう語った。
授業に出ると、現場では必要とはされなかった、理論や哲学が、単に知識を増やすためにあるのではなく、
自分が自分で考えること、つまり人間の自由を追求する営みであることも、おぼろげに理解できました。
驚きでした。大学では、私が現場では出会わなかった何かが蠢いていました。
私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。
「経験という牢屋」とは何でしょう?
私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。
その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。
しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。
失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。
その探究が、一体何の役に立つのか分からなくても、大学においてはまだだれも知らない価値を探究する自由が与えられています。
そのような飛躍は、経験では得られないのです。それは「知」インテリジェンスによって可能となることが、今は分かります。
経験と言う牢屋に閉じ込められないよう、常に自分を戒める!