GWに小さな旅で岐阜の”郡上八幡”に行ってきた。
郡上八幡は、郡上藩青山家(4万8千石)の城下町で、徹夜で踊る”郡上おどり”
お城、古い城下町、街中の清流、長良川の渓流釣りなどで有名な観光地。
さすがに連休期間中は人出が多かった・・・
この城は、日本最古の木造復元天守閣という微妙さが売り。
郡上藩は石高4万8千石だが、領地は美濃山間部125村と越前の飛び地87村。
決して豊かな藩ではなかった。
江戸時代初期には年貢増徴に反対する郡上一揆が起こり、
幕府評定所の判決で藩主の金森氏が追放された。
私が郡上八幡を知ったのは、幕末の「凌霜隊」を大河ドラマで見たのと、
司馬遼太郎の小説で読んでからだ。今回は「凌霜隊」の痕跡も訪ねてきた。
明治元年1月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、郡上八幡の藩論は二分した。
譜代として徳川幕府を最後まで助けるか、官軍に従うか・・・藩主はまだ14歳だった。
国元(郡上八幡)はようやく2月に藩論を朝廷への帰順と決定した。
一方、江戸藩邸では、江戸家老の朝比奈藤兵衛は幕府軍の勝利した時のことを考えて、
十七歳の息子茂吉を隊長とする藩士四十七名をひそかに脱藩させ、
幕府軍側の一隊として凌霜隊を結成させた。つまり美濃郡上藩の小藩生き残り戦略であった。
凌霜隊は脱藩後、大鳥圭介の幕府陸軍、会津藩兵と一緒に、北関東、会津を転戦した。
そして最後は会津鶴が城の籠城戦に加わり、開場の日まで西出丸の防衛にあたった。
凌霜隊はスナイドル銃、スペンサー銃と最新式の装備を持っていた、同じ時期に籠城戦
していた山本八重は、スペンサー銃の弾丸補給を凌霜隊からもらっていた?
と言う新聞記事(福島民友)もあった。
会津開城後、生き残りの凌霜隊士三十余人は、罪人として旧郡上藩へ預けられ、郡上八幡の牢屋にとじこめられた。
苦しい牢屋のくらしから、郡内の寺々の僧侶により助けられて、長敬寺へ預けられ、明治3年の3月赦免された。
江戸を出発してから約2年間、隊士たちは、ようやく懐かしい家路へと向かった。
しかし、その後に郡上八幡に留まる元隊士は少なかったと言う・・・
山間の小さな藩が激動の時代を乗り切るべく、悲劇が生まれた。
城から眺める、山、川、空は当時とそんなに変わっていないようだが・・・
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