Makotsu Garage

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八重の桜 「敗戦の責任」 「弟のかたき」

大河ドラマ「八重の桜」が辛い場面になってきた。

鳥羽伏見での敗戦、徳川慶喜松平容保・定敬の兵を見捨てた江戸帰還、会津藩兵の江戸への撤兵、

新政府の会津追討令、会津藩江戸城登城禁止、江戸追放・・・

敗戦の責任を一手に背負った神保修理切腹

辛い・・・辛すぎる・・・。


八重の桜 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

八重の桜 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)


会津藩祖の家訓どおり、徳川宗家に忠誠を尽くし、孝明天皇の絶大な信頼を得ながらも

慶喜のカリスマ(野口武彦著)西郷隆盛大久保利通岩倉具視の権謀術数に

煮え湯を飲まされている。観ていて忸怩たる思いだ。


「八重の桜」の登場人物紹介のサイトも、鳥羽伏見の戦の後に「故人」という表記が一気に増えた。

林権助風間杜夫)、神保修理斎藤工)、山本三郎:八重の弟(工藤阿須加)。

次週の予告編で、「かたき(弟:三郎の)は私が討つ!」と叫ぶ八重の姿が悲しい・・・。



明治10年西郷隆盛が下野し西南戦争が始まった。

西郷軍による抜刀斬り込み攻撃により、政府軍(陸軍)では死傷者が続出した。

政府軍の兵は、徴兵令によって徴兵された平民(農民・町人出身者)で構成されており、

士族(武士出身者)で構成された西郷軍との白兵戦には対応できなかったためである。


これに対抗する為、東京警視庁の警察官を戦場に送るとともに、東北地方の旧士族から巡査を募集し、

警視隊を編制し九州の戦場に投入した。この警視隊には、戊辰戦争で賊軍とされた会津藩はじめ

東北地方の旧士族が多数応募していった。


  警視隊 ※中列右端は斎藤一(元新選組三番隊長)であるとされる


会津藩家老佐川官兵衛は大警部として、元会津藩家老であった山川浩は陸軍中佐として

中でも有名なのは、田原坂の激戦地に投入された抜刀隊

(警視隊から剣術に秀でた者を100名選抜して編制)。


当時郵便報知新聞記者であった犬養毅(後の内閣総理大臣)は田原坂からの報道で、

会津藩士の隊員が、戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられた雪辱を果たすべく

 「戊辰の仇、戊辰の仇と叫びながら斬り込んでいった。”と綴った。