今日の「八重の桜」は参議院選挙特番で時間が繰り上がる。
1か月の籠城戦の末、明治元(1868)年9月22日午前10時、鶴ヶ城に白旗があげらた。
さぞかし無念であったろう・・・
忠誠を誓い、京都守護職を務めた上での”賊軍”のレッテルは受け入れがたい。
式場には薄縁(うすべり)という縁布をつけたゴザを敷き、その上に約4.5メートル四方の緋毛氈
(今でいうフェルト)が敷かれ、降伏の調印が行われた。
会津藩からは松平容保・喜徳父子。新政府軍からは薩摩藩の中村半次郎(後の陸軍少将:桐野利秋)が式に臨んだ。
そこで容保は「謝罪書」を提出します。容保父子と共に式に臨んだ家老・萱野権兵衛は
「戦争責任は家臣にあるので、容保父子には寛大な処置を」という内容の嘆願書を提出して式は終了。
その後、容保父子は城に戻りって家臣に別れを告げ、滝沢村の妙国寺に入り謹慎となりました。
主君を命がけで守った権兵衛は、戦争の全責任を取って明治2(1869)年に切腹しました。
降伏式終了後、会津藩士たちは降伏式で使われた緋毛氈を持ち帰ります。
それは逆賊の汚名をきせられた無念さを忘れないため、
家老秋月悌次郎が緋毛氈小さく切って藩士に渡したものだといわれています。
それは後に「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれるようになり、
会津の人々の心に深く刻まれることとなった。
勤皇、佐幕の間で多くの藩が日和って行く中、
賊軍の汚名を晴らすために、会津は会津の武を貫き通した。
しかしその犠牲は大きかった。
川崎八重は開場を明日に控えた晩、城の塀に句を書き著した。
明日の夜は何国の誰かながむらむ 慣れしお城に残す月影
そして会津の苦難はまだまだ続く・・・
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