日本統治時代の1919年に台湾総督府が農業発展に
必要な人材を育成する目的で設立した。
当時のエリート学校であり、今の国立嘉義大学にあたる。
嘉義農林は野球では勝ったことのない弱小チームだった。
”近藤兵太郎”が監督として着任する。
近藤は台湾最強チームを作るべく台湾全島をくまなく歩き回り、
有望な選手を探し出して嘉義農林へと呼び寄せた。
そして松山商直伝のスパルタ式訓練で選手を鍛え上げ、
チームを創部3年で全国準優勝するまでの強豪へと育て上げた。
(ウィキペディアより)
1931年、嘉義農林は台湾予選で連勝を重ね、常勝”台北商業も打ち負かし、
甲子園大会(第17回全国中等学校野球選手権)に出場する。
レギュラーメンバーは日本人が3人、台湾本島人2人、先住民族高砂族4人であった。
嘉義農林の活躍はセンセーショナルで、
日本人、本島人、高砂族という変わった人種が
同じ目的のため共同し努力しているということが、
何となく涙ぐましい感じを起こさせる」 と記している。
甲子園に出場した嘉義農林は下馬評を覆し勝ち進む。
神奈川商工、札幌商業、小倉工業と内地の強豪校を打ち破り
残念ながら決勝では愛知代表の中京商業に敗れてしまったが、
多くの日本人野球ファンが嘉義農林選手の活躍や
スポーツマンシップに魅了されたのだという。
試合終了後 甲子園5万5千人の大観衆は叫んだ。
「戦場の英雄。天下の嘉農」と。