Makotsu Garage

本と映像と音楽の記録(ガレージ)

サガレン 北行へのロマンとは・・

梯久美子さんの「サガレン」読了。

サガレンとは樺太(サハリン)のこと。

1945年以前は南樺太(北緯五十度以南)は、日本の国土(内地)

であった。都道府県庁にあたる樺太庁が行政を行い、日本人と

先住民(樺太アイヌウィルタニヴフ)の40万人が暮らしていた。

 

現在はロシアが領有しているが、国際法上は「帰属未定地」なのだそうだ。

※日本が南樺太の領有を放棄した「サンフランシスコ講和条約」を

 ソ連は調印・批准を拒否しており。条約の内容がソ連に適用される

 訳ではなく、国際法上では南樺太の帰属先は未定となっている。

 

だから地図上では。国境を示す赤線が二本描かれていたのか・・・

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南樺太は製糸業、漁業、石油採掘業と言う主要産業の他に

観光業も目玉であった。内地とは違う風景、気候を求めて

人々は稚泊連絡船稚内ー大泊)で北の大地を目指した。

ツンドラ観光、トナカイ牧場、先住民族村(樺太アイヌニヴフ

ウィルタ)見物・・・中でも目玉だったのが北緯50度の「国境見物」

日本国内で唯一の地上の国境線が北の果てにあった。多くの文人たちも

南樺太を訪れ作品を残している。林芙美子北原白秋宮沢賢治・・・

 

著者の梯久美子さんは鉄道マニア(?)。本書ではサハリンを鉄道で

旅しながら旧樺太庁鉄道廃線跡を探す。そして本書の前半では林芙美子の、

後半では宮沢賢治南樺太での行程をたどる。

 

 

宮沢賢治は1922年に妹トシを24歳で亡くした。妹の死の直後の1923年、

賢治は花巻から汽車に乗り北を目指した。青函連絡船、稚泊連絡船を

乗り継ぎたどり着いたのが当時、日本最北の鉄道駅だったサガレン

(サハリン、樺太)の栄浜駅だった。賢治のサガレン行きは

「亡くなった妹トシの魂を追いかけての北行だった」とされている。

 

 なぜ人は北を目指すのか?死者の魂は北へ向かうのか?

 ちょっとスピリチュアルな領域の感もあるが、「北へのロマン

と言う点では共感する部分も多い。そんなロマンも感じながら

地球の歩き方 極東ロシア、シベリア、サハリン」と

日本鉄道旅行地図帳 満州樺太」を併せて眺める。

 

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私はなぜか北行へのロマンが強い。

学生時代から含めると北海道への旅行回数は15回を超える。特に学生時代の

旅は、毎回2週間以上を費やして鉄道を乗り継いで北海道を一周した。

大学の卒業旅行は、夜行列車と青函連絡船を乗り継ぎ、3泊4日で日本の最北端

宗谷岬に行き、朝上野駅に着いたその足で卒業式に出るという強行軍だった。

演歌の歌詞ではないが、日本人が北へ向かう魅力は何なのだろう? 

 

数ある北海道旅行の中で一度だけ、樺太を目にしたことがある。

快晴の宗谷岬に降り立った時、目の前の海の向こうに美しい山々が見えた。

それが樺太だった。距離にして43キロ・・・すぐ近くに見えた。

 当時、司馬遼太郎の「ロシアについて(北方の原型)」を読んだ直後だったので、

目と鼻の先にロシアがある! あそこから欧州に繋がっているのか・・

と感慨深くサハリンの山並みを眺めた記憶がある。

あれも北行へのロマンだったのかな・・・

 

その時の写真。(左側の赤丸の部分にサハリンの山々が見える) 

※当時の国名は、まだソビエト連邦共和国(ソ連)だった。

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樺太を語る時、北のロマン以外に忘れてはいけないことがある。 

第二次大戦での樺太の戦いだ。内地では沖縄以外に樺太も戦場となった。

昭和20年8月11日から終戦を挟んだ25日までの戦闘で軍人700~2000名、

民間人3500~3700名の犠牲者をだした。戦闘の中で疎開船の被雷、

真岡郵便電信局での集団自決などの悲劇も起きている。