筒美京平追悼の中で一番聞きたかったのは、
スージー鈴木さんのコメント。TBSラジオ「荻上チキsession」
(10/15)でついにそのコメントを聞くことができた。
ようやく筒美京平の全貌のが見えてきた。
それは日本歌謡史の大河ドラマを見ているようだった。
生涯に作った曲は3,000あまり、これといった作風や
手クセもなく、曲は多様性に富む。要はなんでも作れてしまう。
80年代当時の松本隆の発言が印象的だ。
「筒美京平は一人しかいない」
「ザ・カセットテープミュージック」風に解説してくれた。
以下、要約を書き下ろし。
①和洋折衷。日本のお茶の間に響くポップスの構築
ビートルズに代表される8ビート(洋楽)と 切ないメロディ、
マイナーキー(邦楽)を合体させ「センチメンタルなビートミュージック」
という形態を生み出した。これらはグループサウンズ等に提供された。
例:「バラ色の雲」ヴィレッジ・シンガーズ 1967 作詞:橋本淳
そして、和洋折衷ポップス最大の代表曲ば
「ブルー・ライト・ヨコハマ」いしだあゆみ 1969 作詞:橋本淳
強いビートを持ったセンチメンタル歌謡。
②頭5秒でを大衆をつかむ”イントロ・ザ・ジャイアント”
1971年は筒美京平の第一期黄金時代。
イントロを曲の顔として機能させ、3秒で大衆の心を掴む曲作りを
筒美京平が編み出した。イントロに本メロと違う独自の商品価値を見出した。
ペンタトニックスケールを使った、子供でも口ずさめるイントロ。
例)「十七歳」南沙織 1971。「真夏の出来事」平山三紀 1971。
このジャンル一番の代表曲
「イントロ・ザ・ジャイアント・オブ・ザ・ジャイアント」は文句なしに
③歌謡曲とフォーク、ニューミュージックとの融合
フォーク、ニューミュージックのムーブメントを歌謡曲と融合させ
大成功させた。その取り込み方は、吉田拓郎、阿久悠、橋本淳など様々な
作詞家と組んだり、ディスコを取り入れたりと非常にどん欲だった。
そしてハッピーエンドのドラマーだった松本隆との黄金コンビが生まれる。
④筒美流ポップスの確立、そしてJ-POPへ
79年~80年は筒美京平の第二期黄金時代。音楽界のど真ん中を歩んだ。
・「スニーカー・ブルース」 近藤真彦 作詞:松本隆
同じソングライターチームが「木綿のハンカチーフ」から5年で
「スニーカー・ブルース」へ変わっていったのが凄い。
※近藤真彦デビュー曲。104万7千枚のミリオンセールスを記録。
多くのアーティストに曲を提供し、第三期黄金時代を築いた。
その他にも、田原俊彦、斉藤由貴、C-C-B、TOKIO、THE ALFEE、等
ヒットチャート上位の多くのアーティストに曲を提供していた。
この頃、ミュージシャン達が「筒美京平って凄くねぇ?」と
リスペクトする動きが起こった。この動きから生まれた音楽が
J-POPとなっていった。
「ロマンティックが止まらない」C-C-B 1985 作詞:松本隆
⑤若手ミュージシャンのリスペクトの象徴として
90年代以降は、筒美京平が若手ミュージシャンから
「リスペクトの象徴、神としての存在」になったが、面白さを求め
積極的に若手とのコラボ作品を生み出していった。
「泣かないぞェ」鈴木蘭々、「人魚」NOKKO、中川翔子、内田有紀など。
はこの時代の代表曲。ついに渋谷系まで到達した。
長年にわたり、楽曲で時代を作っていった筒美京平だが
本人が前面に出ることはほとんどなかった。
最後にスージーさん自身が選曲した曲をかける。
「恋の弱み」郷ひろみ 1976 作詞:橋本淳