ナンバーがマラドーナの緊急追悼特集を組んだ。冒頭の書き出しは
サッカーを愛する人ならば皆、心の中に
「自分にとってのマラドーナ」が宿っているだろう。
私がディエゴ・マラドーナを初めて知ったのは
「1979年のFIFAワールドユース選手権 日本大会」だった。
当時、高校生だった私は学校が終わると地元のグランドで
草サッカーに熱中していた。前年の1978ワールドカップでの
マリオ・ケンペスを擁するアルゼンチンの優勝の興奮が
まだまだ残っている頃だった。
そんな中でワールドユース大会が日本で開催された。
サッカーファンは興奮した。
Jリーグ開幕やキャンプテン翼よりもはるかに以前、
サッカーがまだまだマイナーだった時代のことだ。
1979年アルゼンチンユース代表のキャプテンが18歳の
ディエゴ・マラドーナだった。圧倒的な存在感とテクニック!
一人だけ別格だった! 大会得点王のラモン・ディアス(後にマリノスでも活躍)
と両輪の活躍でアルゼンチンは優勝した。国立競技場での行われたソ連との決勝
には私もスタジアムに行き興奮を分かち合った。
(たしか高校生以下は入場無料だった?)
マラドーナに魅了された理由は「165cmという身長」だった。
私とそう変わらない低い身長でありながら、世界のトップクラスで
最高のテクニックを披露する・・・「身長が低くてもフィジカルを鍛えれば
通用するんだ」と勝手に思い込み、低い身長がコンプレックスだった私も、
マラドーナから大きな勇気をもらった。単純な笑い話だが当時は真剣だった。
それを励みにトレーニング、草サッカーに励んだものだ。
それ以来、マラドーナは他人ではなかった(笑)。
その後の大活躍、伝説、お騒がせはご存じの通り。
バルセロナ、ナポリの奇跡、マラードーナの大会だった「1986メキシコW杯」、
セビージャ、ボカ・ジュニアーズ、薬物依存症、アルゼンチン代表監督、
画面に映る髭面のでオーバーアクション(笑)。
いろいろありすぎるディエゴ・マラドーナだけれど、
勇気をもらったマラドーナのままだ。
合掌。