エビデンスの提示も客観的なデータの説明もなく、希望的観測と
楽観論にのみを為政者は声高に叫ぶ・・・これが現在のコロナ対策だ。
それを例えてインパールという名前が、誌面に散見され始めた。
もちろん1944年に発動され「史上最悪の作戦」と言われる
「インパール作戦」に例えてのことだ。
「コロナ禍で五輪開催を強行する政府のやり方は、第2次大戦の最悪の作戦と いわれるビルマ(ミャンマー)でのインパール作戦とそっくりです」
菅政権と日本軍に共通する「失敗の本質」。なぜ、根拠のないご都合主義や精神論は、戦後75年以上も受け継がれているのか。
尾身会長「排除」の先に見えてくる「インパール悪夢」の再来。目的遂行のためには「客観的分析」を無視、それは敗戦への第一歩。
恐怖のインパール五輪 ~家が火事なのに「祭りがしたい! 」と駄々をこねる成人男性が支配する国。
そんな折、文春新書の新刊が非常にタイムリーな内容だった。
「インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか」
何か今までの評価を覆すような発見があるのだろうか?
読了した。
インパール作戦に対する小生の感想、認識は従来と変わらなかった。やはり
「史上最悪の作戦」であった。
但し、従来はどうしても日本軍内部の失敗の本質ばかり、内向きに捉えられる
インパール作戦を、英軍、英印軍、自由インド軍の視点から解説している点は、
非常に興味深かった。特にイギリスがこの戦いをどうとらえていたかは・・・
イギリスの国立陸軍博物館が自国の「最大の戦い(グレイテスト・バトル)」を決める
企画を行った際、そこで選ばれたのが「インパールとコヒマの戦い」でした。
ワーテルローの戦いを抑えての選出だった。
インパールの戦いが「東のスターリングラード」と表現されることもある。
独ソ戦におけるスターリングラードと同じように、ビルマ戦において
インパールは重要な役割を担った。
イギリスはインパール(インド領内)の陥落が、大英帝国の王冠の宝石たる
植民地インドの崩壊に結びつくことを非常に危惧した。1942年にビルマから
敗走して以降の2年間、死に物狂いでインド防衛とビルマ奪還に向けて
手を打っていた。つまり満を持してのインパール戦だった。
その点が、起死回生の楽観論と希望的観測、あいまいな意思決定の空気で、
作戦に突入した日本軍と大きく違うところだった。
しかし、このような状況でも日本軍はかなり奮戦した。
一時は相当なところまでイギリス軍を追い詰めた。イギリス軍の犠牲者数も
日本軍と遜色ないぐらい多かった。しかし雨季の到来と補給の途絶が日本軍の攻勢を
停まらせ、統帥の混乱と遅すぎた撤退命令が「史上最悪の作戦」を生んだ。
「愚戦」と言う言葉がいいとは思わないが、
作戦の結果からすれば「愚戦」なのだろう。
令和の世で、そんな作戦に例えられている指揮官はどこのどいつだ!
早く解任せねば全滅だ・・・ あ~もどかしい