W杯前の日本代表史のおさらい(続き)
2002年の後も熱狂は続いた。
中田や黄金世代が20代後半の円熟期を迎え、それに中村俊輔、
高原らが加わった代表チームは史上最強と言われた。
2006年ドイツ大会予選は11勝1敗の1位通過。
期待は高まったが、予選の組み合わせがキツかった。
ブラジル、クロアチア、オーストラリア・・・みな強い。
初戦は勝つ皮算用をしていたオーストラリア戦。
中村俊輔のゴールで先制し、逃げ切れるかと思われた後半
84分、89分、90分と立て続けに点を取られ敗北した。
(カイザースラウテルンの悪夢)
その後、立て直しクロアチア戦に0-0のドロー、ブラジル戦で
先制まではよかったが、本気のブラジルにボコられ1-4で敗戦。
ジーコ・ジャパンは予選リーグ敗退となった。
岡田武史監督の再登板となった。日本代表メンバーは大幅に入れ替わった。
中田が引退し心配されたが、本田圭佑、長谷部、岡崎、長友と
新たな顔ぶれが続々と登場してくる。日本代表も頼もしくなった。
2010年W杯南アフリカ大会(6/11~7/11)
日本代表はオランダに次ぐ予選2位で決勝トーナメントに進出した。
オランダ戦を自由ケ丘のスポーツバーで観戦していた。
0-1で敗れたがオランダをあと一歩まで追い詰めた。いい試合だった。
その翌日入院していた父親が亡くなった。
なのでそれ以降は大会の記憶がほとんどない。
日本代表は決勝トーナメントに進出し、ベスト8を賭けた
あと一歩でベスト8と言う地点まで日本代表は辿りついた。
2002年より確実に進化していた。
親父が亡くなった年は、
W杯南アフリカ大会の年の暑い夏だった。
決して忘れることはないだろう。
2014年W杯ブラジル大会。
ザッケローニ・ジャパンは、2敗1分で予選リーグ敗退。
代表の大部分が海外組となり期待はしたが、あれよあれよと敗退。
今一つ記憶に残らない大会となった。
2018年W杯ロシア大会。
初戦のコロンビア戦がすべてだった。
前半、相手MFカルロス・サンチェスが一発退場&PKとなった。
「これはしかすると!?」・・見ていて色めき立った。
追いつかれたが、大迫のゴールで勝利した。これで勢いにのった。
第二戦のセネガル戦も2-2で引き分けた。強豪相手に1勝1分けだ。
2大会ぶりに決勝トーナメントに進出。
そこでロストフの悲劇が・・・
ベスト8をかけたベルギー戦(FIFAランキング3位)会場:ロストフ。
2-0とリードして後半に入る。日本代表はいい調子だった。
後半69分、74分に得点され同点とされるも、良く踏ん張っていた。
このまま延長突入かと思われた後半90分。
本田のコーナーキックをキャッチしたい相手キーパーからの
ベルギーのカウンターは、14秒で日本代表から1点をもぎ取った。
ゴールの瞬間選手たちはピッチに崩れ落ちた。
再び掌中にしていたベスト8を逃してしまった。
ロシア大会の日本代表は強くてクレバーだった。
世界に誇れる日本代表だった。
本田、長谷部はこの大会で代表を退いた。
ここまでが日本代表W杯カタール大会前史。
さて、カタール大会だ。
ドイツ、スペイン、コスタリカ・・・グループEまじか
いや、何を弱気になっている。
日夜、海外のクラブチームで活躍する代表選手たちは
先人たちが築いた代表チームの誇りを胸に、怯むことなく
強豪チームに立ち向かうのだ。
我々が力いっぱい応援しないでどうする!
力の限り叫ぼうではないか(コロナ禍なので心の中で)
Oh! VAMOS! NIPPON!
NIPPON! NIPPON! VAMOS NIPPON!
※VAMOS :スペイン語で「頑張れ」「行け!」の意味