77年目の終戦の日。
・戦没者慰霊祭
・甲子園のサイレン(そういえば前職では昼に黙祷があった)
・NHKのドキュメンタリー番組
ぐらいだろうか、今、終戦の日を感じることができるものは・・・
私が小学生の頃は、8月15日が登校日で、正午には街中のサイレンが
なっていた記憶がある。
明治元年~昭和20年までは、80年。
昭和21年~令和4年までは、77年。
「戦後」という言葉がしっくりこないほど長くなった。
今年も、NHKの戦争ドキュメンタリーはほとんど見た。
最近の戦争ドキュメンタリー(NHKの)の切り口が大きく変わってきた。
ビッグデータ、AIによる分析能力が飛躍的に上がったお陰で、
マクロ的な切り口だけだったものが、ミクロの視点の積み上げによって
新たなマクロ的視点を構成できるようになった。
NHKはこれをエゴ・ドキュメント(=日記、手帳)というらしい。
この手法で番組のリアリティーは格段に上がった。
リアリティーが上がるということは、戦争の悲劇をより身近に感じる
ということだ。
見て感じて伝えなければならない。これが我々の責務だ。
8月15日に放送された「ビルマ 絶望の戦場」は、
私の知らないことばかりだった。
大きな犠牲と出し、日本軍の失敗の本質として
「インパール作戦」(1944年3月~7月)は非常に有名で多くの報道が
なされているが、その後の1年間(1944年8月~1945年8月)の
ビルマ戦線が、それを上回る悲劇だったことは、語られることが少ない。
今回のNHKスペシャルはそこにフォーカスをあてた。
ラングーンを英印軍に奪回(1945年5月)され、南北から挟撃された
日本軍と在留邦人はペグ―山系に退避した。この時、軍を指揮すべき方面軍の
上層部はベトナム方面へ逃走していた。それも真っ先に。
やがて英印軍が攻め込んできた。残された道は雨季で増水している
シッタン川を渡河してタイ方面に脱出すること。
1945年7月下旬、第28軍はシッタン河の渡河を開始した。
衰弱した将兵、民間人は、敵の攻撃に追われつつ、濁流に身を投じた。
体力の衰えた者は流れを乗り切ることが出来なかった。
ペグ―山系に退避した34,000名のうち、渡河できたものは15,000名に
過ぎなかった。終戦の日の半月前のことだった。
あと半月・・・さぞ無念であったであろう。
あと半月と言えるのは、歴史として振り返る結果論からであり、
当時はとてもそんな状況ではない。
私の叔父(父親の兄)は学徒動員で出陣し、フィリピン・ルソン島で戦死している。
墓石には戦死した日と場所が刻まれている。
「昭和20年6月24日 ルソン島ファーム・スクールにて」
以前は、終戦まであと2か月弱・・もう少しだったのに、無念であったろう。
と思ったこともあったが、大岡正平「レイテ戦記」を読むと、そんな状況では
なかったことがすぐに分かった。
1か月、1週間はおろか、たった1日も無限の時間
それも地獄の時間であったことであろう。
忘れてはいけないこと、伝えなければいけないこと を感じ、考えるのが
終戦の日である。NHKは今後もこうゆう番組を続けていってほしい。
私は必ず見るから。